ジブリ映画『千と千尋の神隠し』を久しぶりに見て、行きと帰りではトンネルが全然違うことに気づきました!
調べてみると、他にもトンネル入り口の石像の様子が変わっているし、鳥居の近くにあった石の祠(ほこら)にもちゃんと意味があることがわかりました。
自分の考察も含め、備忘録的に解説をまとめます。
千と千尋の神隠しの石の祠や石人は神域の結界を意味する目印
最初に映画を観たときはストーリーを追うのに必死で全然気づかなかったんですが、先日映画を観たときに”あれ?鳥居があるところを通ってる”とか”この大きな木は御神木?””木の下にあるのは祠かな?”などいくつか気になる点があったんです。
それについて調べてみたところ、興味深い考察があったのでご紹介します。
御神木・鳥居・石の祠・石像・橋はすべて神域の結界を意味する目印
色々と調べていくなかで、御神木や鳥居、木の根元の石の祠や石像、さらに千尋が渡る橋(川)も神域の結界を意味する目印だということを知りました。
昨年から岡田斗司夫さんの『千と千尋の神隠し』解説が話題になっていますが、特に冒頭の千尋一家が舗装していない道路に入っていくところからの分析は見事です。
大きな木が御神木であること、道路工事のためか鳥居が木に寄り掛かるようになっていること、御神木の足元にたくさんの小さな祠があることなど、この動画を見るまではしっかり観ていませんでしたから。
かつては参道沿いに置かれていたであろう石の祠の中に鮮やかな色のお皿があり供物が捧げられていたはずということなど、神域であることを暗示する手がかりがたくさん画面の中にあったのです。
岡田さんの解説を踏まえて自分なりに考えてみると、千尋一家は以下のようなルール違反をしていると思われます。
千尋一家は結界を破って勝手に神域に入った侵入者
千尋たちの一家は、気づかないうちに結界を破って勝手に神域に入ってしまいました。だからこそ侵入者として神域内の者たちに責めを負わされたのです。
一家の間違った行動を4つピックアップしました。
神域に車で侵入した
鳥居がご神木の脇に立てかけられるようなかたちになっていましたが、あの場所からは神域です。車で侵入するべきではないと思われます。
神社の境内で「下乗」という札を見たことはありませんか?乗り物から降りて参拝するように、という意味です。車はもちろん、自転車からも降りて境内に入りますよね。
明治時代まで、身分による違いはあったものの宮城、離宮、諸官省、社寺では下乗が義務になっていたそう。鎌倉時代の書物には、禁を破ったものが苔刑(ちけい:むち打ちの刑)にされたという記述もあるようです。
つまり昔は誰もが知る常識だったわけですが、今は忘れられつつあるしきたりかもしれません。
参道を車で暴走した
千尋一家は参道をアウディで暴走します。暴走は言いすぎかもしれませんが、あんな狭い道をスピートをあげて進むなんて危険すぎますよね。
岡田氏の指摘で初めて気づきましたが、御神木のあたりは舗装されていない土の道で、途中から石畳の道に変化します。山の奥に石畳の参道があるということは、そこが昔から神聖な領域であることの証なんだそうです。
確かに、誰も訪れない神社なら石畳にする必要はありませんが、多くの人が訪れる神聖な場所であれば石畳で美しく整えられていたというのは納得できますね。
参道は本来乗り物から降りて自分の足で歩く場所だと思うので、その上をスピードを出した車で疾走するというのは神域への敬意が感じられない行為です。神域内の存在から怒りを買っても不思議ではありません。
結界内に勝手に侵入
千尋の一家は、神域の結界をすべて破って内側に勝手に侵入しました。
劇中には3つの結界が出てきます。最初の結界は御神木とそこに立てかけられた鳥居。鳥居はご存知のとおり”ここからは神社だよ”という印ですね。
トンネルの手前に蛙人(あじん)の石像がありますが、これが第2の結界です。この場所で貴人も含めすべての人が乗り物から降りることになります。
第3の結界が川です。千尋はハクに「戻れ!」と言われ、豚になった両親を置いて川を渡り車に戻ろうとしますが、いつの間にか川の水が増え、向こう岸に戻れなくなっていました。
3つ目の結界の内側が完全なる神域で、本来人間が入るべきではない場所だったのです。
供物を無断で食べる
結界の中(神域の内側)に入ってしまってから、千尋の両親は供物を無断で食べるという決定的な間違いを犯しました。
湯婆婆が「おまえの親はなんだい?お客さまの食べ物を豚のように食い散らして。」と怒っていましたが、油屋を訪れるお客=神様なので、あのご馳走はいわば神様への供物だったわけです。
例えばお正月の神棚にお供えした鏡餅は、神様にお供えしてお召し上がりいただいたのち、ご挨拶して下げてから家族で頂きますよね。神棚のお供えものを無断で食べるのは罰当たりな行為だと思いませんか?
千尋一家はそこに全く気づかなかったのですね。
結界内に勝手に入った罰として千尋は名前を奪われ両親は豚に
結界を破ったり無断で侵入するという礼儀知らずな方法をとった者は、結界内の者から非難されて当然である、それが日本における古来からのルールになっているようです。
一家は鳥居や御神木に気づかず神域内に入ってしまいましたが、これは別の例で考えるとわかりやすいでしょう。
たとえば相撲の土俵は土の上に太い綱を丸く置いたものですが、相撲を全く知らない人であれば、たとえば女の子が土俵の中に靴のまま入ってピクニックをしても何の問題も感じないはずです。
しかし本来土俵は女人禁制ですし、普通は土足で入りません。また、土俵上でものを食べることもしません。縄という結界で囲んだ神聖な場所だからです。もしこんなことを国技館でしたら、即出入り禁止になるか、犯罪者になってしまうかもw
というわけで、作法や知識がない無作法者は簡単に掟破りをしてしまうのですね。掟を破ったら罰を受けるのは当然です。
先に禁を侵したのは千尋一家ですから、湯婆婆が両親を豚に変えたり千尋の名前を奪ったりしても文句は言えないのかもしれません。人間の私たちには、そこまでやる必要があるかわかりませんけどね。
千と千尋の神隠しのトンネルと石人が行きと帰りで違う理由は?
千尋一家が最初に入ったトンネルと、帰りに通ったトンネルは色も材質も全く違うものでした。どうしてあんな違いが生まれたのでしょうか?
これも岡田氏の解説で初めて知ったのですが、最初に千尋たちがくぐったトンネルの上部には額がかかっていて、読めないくらいのわかりにくさで「油屋」と書いてあるそうです。
壁の赤い色も千尋が働いた油屋と同じ色なので、行きのトンネルは結界の中にあるトンネルだったと考えるのが妥当でしょう。
油屋の前の橋を振り返らずに渡る=川を渡ることが、神域と現実を隔てる結界を超えることだったのではないでしょうか。そう考えると帰りのトンネルは間違いなく現実の世界にあります。
帰りのトンネルが石造りで草や苔に覆われていたのも、参道の石畳や鳥居・祠などと同じ時代からあるものだと考えれば納得できます。
蛙人の石像に見えていた石も、帰りはただの石の塊になっていました。神域内の存在の影響を受けながら見る世界と人間が見ている世界は全く違うものなのでしょう。
千尋が感じた「わたし、行きたくない」という直感は”ここは入っては行けない場所だ”と感じたという意味では正しかったかもしれませんねw
今回の記事を書くきっかけになった岡田さんのジブリ解説動画は非公開になってしまったのですが、YouTube等で公開されることがあればぜひご覧ください。非常に面白いです!
トンネルが行きと帰りで違う理由と石像や石の祠の意味まとめ
『千と千尋の神隠し』では、行きと帰りでトンネルが全然違います。
行きのトンネルは赤くて油屋と同じ壁。異世界のトンネルです。
帰りのトンネルは現実のトンネルです。石造りで草や苔に覆われており、千尋一家が車で通り過ぎた鳥居や祠、石畳の道と同じころ作られたものでしょう。
千尋一家は神様専用の湯屋の結界内に迷い込み、両親は神様への供物であるご馳走を無断で食べたため豚になり、千尋は名前を奪われるという罰を受けました。
千尋が橋(川)を渡って現実の世界に戻ったことで、神域と現実を隔てる結界をもう一度超え、現実のトンネルにたどり着いたというわけです。
普段の生活では意識しなくなっている結界ですが、日本の伝統的な生活の中にある知恵を受け継いでいくことも大切ですね!